次世代研究者の育成

音楽を文章で伝えるのは難しい。
そもそも映像と違って音楽の捉え方は個人差が大きい。
当然ながら細かい違いを文章で伝えることは不可能に近い。誰もそこまで文章を読んで確認しようとも思わない。

そこで比較音源を聴いてもらって、瞬時に違いと面白さを伝えようというの#LinerNotesを作った理由である。

ただ、同じ曲名の収録違いを区別する仕組みが難しい。今、以下の比較音源は複雑な設定無しで聴けるようにしています。
富士山に登るなら麓から登るより五合目からが有利、樹海で迷わない事も大事。
ビートルズも他の著名人と同じく尾ひれの付いた伝記が多数存在する。伝記作家の多くは本人証言やインタビューに基づいてより真相に迫ろうとする。ただし、第三者がこの真偽に切り込むのは容易ではない。
その中にあって、80年代後半にマーク・ルイソン氏が『レコーディング・セッションズ』を出版する。アビイロード・スタジオのセッション記録を基軸にした画期的な本であり、信頼性は群を抜いていた。世のビートルズ研究はここからスタートしたと言っても過言ではない。

私の場合、プログラマという職業柄、「全ての場合を論理的に考える」という作業に慣れている。これが出来なければプログラムは正しく動かないわけで必須技術でもある。

それを『レコーディング・セッションズ』に応用してみると、
「資料が存在している」ことは事実だが、「記載内容が正しい」とは限らない。さらに「資料の解釈が正しい」とは限らない。その上、日本の場合は「翻訳本が正しい」とは限らないという厄介な問題まである。
となる。著者を盲目的に信じたらその時点で樹海行きとなってしまう。

それは私が書いたものも同様であり、普遍的なのは前述の比較音源だけで解釈には間違いもあり得る。これがあるので #LinerNotesの場合は「証拠として比較音源を検証する手段を提供するので、読者が判断して欲しい」という方針である。
併せて、ジョンやポールの証言を意訳引用する際に原文も付けている。こうすることで訳が正しいかどうかは読者が判断できる。

こう考えるに至った経緯を回想しておく。次世代研究者の参考になるだろう。

最初に興味を惹いたのは‘I Want To Hold Your Hand’のカラオケを使って‘Komm, Gib Mir Deine Hand’(同曲のドイツ語版)を録音したという話だった。これを比較すれば演奏が共通、ボーカルは英語とドイツ語で不一致となるだろう結果が予想できる。ステレオの原理を利用すれば不一致部分が左右に分かれて聴こえるはずである。
結果は予想通り。雑な同期処理でも方向性の正しさを検証するには充分だった。


早速、正確な同期をすべくアプリを自作して全曲調査を始めた(ここをサラッと書けるのはプログラマだから)。
動作確認テストとして改めて‘I Want To Hold Your Hand’の英独版を試してみると、いきなりビックリポイントが出てきた。
ボーカルだけではなくギターフレーズと手拍子も違っていたので、ジョージとリンゴが何をしていたかまで理解できた。
想像以上の可能性を感じると共に、ルイソンさんの解説に漏れがある事、つまり真偽が混在している事も判明した。
レコーディング記録に書かれた事実と、ルイソンさんがテープを聴いたレポートは分けて考える必要があることを理解した。


全曲調査は当然のようにアルバム『PLEASE PLEASE ME』から着手するが、その前にどうしても気になる‘Help!’だけは調べておきたかった。ジョンの歌がモノとステレオで歌詞が違う("and"と"but")という有名な謎があったが、『レコーディング・セッションズ』では一切触れてなかった。記されたレコーディング手順だけだとこのような違いは生じないことから、「ルイソンさんはレコーディング工程に詳しくないので疑念を持たないのでは?」と感じていた。

同期開始から10秒、順調にシンクロしていたがヴァースに入るタイミングで同期が取れなくなった。手作業によるアナログ・テープの編集は熟練したエンジニアでも数ミリの誤差が生じてしまう。通常は15ips(1秒間で38センチ)の速度なので充分に小さな誤差なのだが、人間には判別できない数ミリ秒の編集跡を判別できるというこれまた予想外の発見があった。つまりレコーディング記録にさえ残ってない事実もあるという事であり、それを知ることができる可能性も秘めていた。
ヴァースに入ってからは自分の知識では同期が取れなかった。もう少しノウハウを増やす必要があると負けを認めて一旦保留した。


いよいよ‘I Saw Her Standing There’に着手する。ルイソンさんのレポートによれば「2トラック録音をして、第9テイクと第12テイクの編集バージョンを作り、モノ・ミキシングとステレオ・ミキシングをする」という至って普通に思える作業工程のはずである。
ところがいきなり先入観の壁にぶち当たる(これが完全に解決したのは比較的最近の出来事である)。

先ず見つかったのは第9テイク(つまり"1 2 3 4"のカウント)を編集した跡である。ちょうど小節の区切り位置なので"four"に重なるジョンのギターだけが第9テイクだと判明した。ベースだのジョージのギターだのと言われていたのが間違いだったことも確定した。なぜ確定できるかと言えば、この曲は全12テイクがブートレグとして公知となっていたので、それと比較することもできたからである。
問題は「モノとステレオの比較で編集跡を確認できたこと」である。一見すると当たり前のようであるが、ルイソンさんは「第9テイクと第12テイクの編集バージョン」とレポートしていた。それを使ってモノとステレオを作成したのなら編集跡など分かるはずがない。しかもブートレグには第9テイクも第12テイクも完全な形で収録されており、切り貼りされた形跡は無い。
もう一つ気付いたのは(正確に言えばA HARD DAY'S NIGHTを調べていた頃)、「モノとステレオのエコーが同じこと」である。エコーの付加はアナログ作業なので同じものを再現することはできない。ミキシング工程で掛けたエコーはミックス違いとして検出できたのである。従ってステレオ・バージョンとブートレグが同じということは今で言うミキシングではなく、単に音質調整を施した程度のテープコピーのようであった。


結局、アルバム『PLEASE PLEASE ME』を通してモノとステレオでエコーの掛かり具合が違う曲は無かった。ということはミキシング工程の仮説は正しそうに思えた。
ミックス違いとして知られていた‘Misery’のイントロ違いは、単にモノ・バージョンの最初の1音をカットしているだけだった。
唯一の大きな違いは‘Please Please Me’で、何故かハーモニカ(を含むモノ・バージョン全体)だけが一致するという奇妙な結果が得られた。恐らく誰も気付くことはないであろう事実であり、これを無理なく説明できる仮説は限られていた。
ちなみに、ルイソンさんのレコーディング知識は『ANTHOLOGY』に関与していた30年前で止まっているらしく、証言が頼りの最新著『TUNE IN』では解き明かせていなかった(それどころか‘Love Me Do’では自己矛盾している)。


『レコーディング・セッションズ』に相当の誤情報が紛れ込んでいるのは明白で、それはルイソンさんが解釈・加筆したと思われる部分が特に怪しかった。多くの信奉者は必然的に足止めを食うことになる。
ここで一つの境地に達する。
他の研究者がミックス違いの探求に勤しむのに対して、私の場合は確定情報として違いを把握できる。ミックス違いが生じた経緯を探求するという一歩先の研究をする事こそ意義がある。


ここからは皮肉なことにルイソンさんが補足した内容を否定すると事実に合致する発見が続く。

続くシングル‘From Me To You’/‘Thank You Girl’はいずれも編集箇所を特定できた。逆に「編集バージョンからミキシング」を裏付ける箇所は見当たらない。
特に後者はモノとステレオでハーモニカの有無が違っていて誰でも容易にミックス違いを認識できる。そこだけではなく、同じ位置に挿入されているケースでさえ編集跡を全て検出できたので、モノとステレオで別々に編集作業をしていたとしか考えられなかった。しかもステレオ・バージョンのエンディングには間違って作成された編集用ピースが使われていたので「共通する編集バージョン」が無さそうな事もほぼ確実になってきた。
Thank You Girl
それでも、この時点では「ハーモニカを挿入してみたり戻したりを試した可能性」も仮説としては残しておいた。


ステレオ・バージョンが存在しない‘She Loves You’/‘I'll Get You’はスルーしてアルバム『WITH THE BEATLES』に着手する。
エコーの傾向は変わらないが、ビートルズ人気急上昇中の2作目となると意気込みも変わったらしい。‘Till There Was You’だけは録音時のエコーだけでは足りず、モノ・バージョンのテープコピー時にもエコーが足されたようだ。これは間違いなく「ミキシング」だろう。
「編集バージョン」に関してはルイソンさんに不利な発見が続く。
‘It Won't Be Long’の最後の"till I belong"は別テイクになっている。もはや「編集バージョン」云々ではなく編集作業の手抜きが見つかってしまった。
It Won't Be Long
そして‘Hold Me Tight’が「編集バージョン」を否定する決定打となる。モノとステレオは最初から最後まで別テイクという根本的な相違があり、それはブートレグでも確認できた。両バージョンは編集する余地が無く、「編集バージョン」はルイソンさんの推測情報であることは疑いようがなかった。
その他、‘Little Child’や‘Money’のレコーディング工程もグダグダだったが、「資料を重視、解説は無視」の方針で概ね理解できた。音楽に詳しくない人が録音テープを聴いたらどう聴こえるのだろう、という穿った推測も必要になってきた。


シングル‘I Want To Hold Your Hand’/‘This Boy’から4トラック録音が始まり、これ以降はモノとステレオの比較でエコーの差を検出できるようになる。つまり本来の「ミキシング工程でのエコー付加」の始まりであり、その特徴は「モノ・バージョンのボーカルにはエコーをより深めに掛ける」である。
ちなみに、ルイソンさんは2トラック録音と4トラック録音の違いを把握できないままこの時期の調査を進めていたのが『BEATLES FOR SALE』期の記述で明らかになる。


アルバム『A HARD DAY'S NIGHT』では4トラック録音に起因するミックス違いが多発する(‘I Should Have Known Better’や‘If I Fell’のボーカル、等)。この発見自体も面白いものではあったが、‘I Should Have Known Better’のイントロ分析などの方が自分にしかできない研究分野だと認識していた。
I Should Have Known Better
If I Fell
I'll Be Back(例外)
この時期のハイライトは‘Can't Buy Me Love’でのセッション・ドラマー問題だろう。情報収集はルイソンさんの本領発揮といったところだが、恐らくもう一人のゲーム・チェンジャーとなるジェフ・エメリックは自伝のための隠し玉として証言を渋ったと思われる。ルイソンさんは「不明のセッション・ドラマー」としていたが、エメリックは「エンジニアであったノーマン・スミスがミキシング中に叩いた。」と詳述している。残念ながらルイソンさんは情報分析が不得手のようで、証言を得られないと真相には迫れなかった。とは言え、この件は2014年のブル―レイ版『A HARD DAY'S NIGHT』で明らかになった通り、エメリックの証言も全体像を捉えたものではなかった。
Can't Buy Me Love
同作品のオリジナル・モノ音声は映画バージョンの特徴を明らかにし、加えてそれに起因するマーティンとレスターの確執も炙り出している。マーティンは映画のクランクイン前に映画用のモノラル・ミキシングを済ませていたが前述の通りエコーを効かせたミックスであった。レスターは逆にエコーの付かないライブ感を必要としていたため、これが64年3月の混乱(モノ・バージョンの作り直し)の本質部分であり、前述のセッション・ドラマー問題にも繋がっている。


アルバム『A HARD DAY'S NIGHT』B面には「アメリカ用ミックス」が別途作成されているが、「先見性のあるビートルズはアメリカ用に別バージョンを作っていた」などと解釈するべきではない。
テープコピーで同じものが作れると思うのはデジタル社会の先入観でしかない。アナログ時代は「コピーをすると音質は劣化する」ものであり、世界市場であるキャピトルに劣化音源を送る訳にはいかないので「同じものを作ろうとした」と解釈すべきである。結果としてはミックス違いが生じているが。
これに関しては‘Thank You Girl’でハーモニカ挿入が局所的(1~2小節単位)に行われていたことでも明らかである。ハーモニカを入れない箇所の音質劣化を回避していた訳である。


‘Words Of Love’の項でルイソンさんの誤解が露呈している。「ベストは第3テイク」としながら、これは「第2テイクにオーバーダブを加えてたもの」とも記している。 4トラック録音では同じテイク内でオーバーダブができることを理解できてなかった事を示しており、2トラック録音のトラック数が増えた程度に考えていたらしい。後に正しい認識になったと思われるが、以前の記述を再チェックすることは無かった事も示している。

4トラックテープは最終結果ではない。
これが現代人が陥りがちな認識間違いである。当時の目的は4トラックテープを完成させてモノ・ミックスやステレオ・ミックスを作れる状態にすることではなかった。あくまでもモノラル・マスターやステレオ・マスターを作成するのが目的なので、ミキシング段階で音を追加することもあった(前述の‘Can't Buy Me Love’のハイハットが好例)。

‘Kansas City’のピアノは間奏以降が4トラックテープに記録されていない。マーティンがミキシング中に演奏しているため、この曲に限ってはモノラル・ミキシングとステレオ・ミキシングを同日に済ませている。初代CDの最初の4枚がモノで、リミックスすらされなかった最大の理由がこれだろう。
Kansas City

リンゴのために作った‘I Don't Want To Spoil The Party’はヴァースの上パートとミドルの下パートにエコーが付いている。ジョンがリンゴのために歌ったガイドボーカルがリード・ボーカル用のメロディーであるのが分かる。補足しておけば、残るハーモニー・トラックはジョン、ポール、ジョージの3人が歌っているので「ヴァースの下パート問題」も可能性は3人にあり、誰の声に聞こえるかを「証拠は自分の耳」としてしまっては説得力に欠ける
I Don't Want To Spoil The Party
リンゴはカラオケ作成から1ヶ月以上経過しても、ボーカル録音に着手せず、結局は断念してしまう。急遽‘Honey Don't’が用意されたことで‘Leave My Kitten Alone’は心太方式でお蔵入りになる。その上、‘Honey Don't’のボーカルはポール(?)がタンバリンを振りながらのアフレコだったようだがマーティンを満足させる内容ではなかったらしい。ミキシング中に2箇所を(タンバリンと共に)差し替えるというおまけまで付いている。当然ながらこの差し替えボーカルも4トラックテープには残っていない。
Honey Don't


キャピトル盤の深いエコーはそれを目的としたものではない。
これも人間の聴力の限界から来る後世の認識間違いだろう。「エコーの差を検出できる」事は多くの副次効果がある。その最たるものが新たに調査対象に加わったキャピトル盤(アメリカ盤)である。
結論から言えば、この当時に起こっていたのはイギリスとアメリカに於ける技術格差の象徴である。モノラル至上主義でレコード制作をしていたアビイロードに対して、アメリカでは既にステレオ装置が大衆化していた。アビイロードでは新曲のモノ・ミックスをアメリカに送付するが、キャピトルが欲しかったのはステレオ・ミックスだったので疑似ステレオ化していたのである。アメリカでも古いレコード音源はモノラルだったため、ステレオ装置のために疑似ステレオ化する方法が研究・開発されていた。この仕組みとしてエコーやリバーブが利用されていた訳である。

シングル‘I Feel Fine’/ ‘She's A Woman’を例にあげれば、当然ながらアメリカでのシングル・リリース用として先ずモノ・ミックスが制作・発送されている。基本的にエコーやリバーブがアメリカ人好みだったのか、この段階で軽く付加されている(アビイロード側が配慮していた可能性もあり)。そしてこのモノ・ミックスを使った疑似ステレオ化(エコー&リバーブ&左右のディレイ)で独自のステレオ・バージョンを作っている。
この話はさらに続く。アビイロードでステレオ・ミックスが制作されるのはその2週間後であるが、ここで凄いのはキャピトルは「遅れて到着した正式なステレオ・ミックス」を使わなかった事である。ステレオになっていれば何でも良かったと言ってしまうと身も蓋も無いが、こうしてアメリカではイギリス盤とは似ても似つかない深いエコー付きミックスとなっている。
なお、この点に関してはアメリカ版シングルも研究する必要がある(後世にお任せ)。

アルバムの状況はさらに面白い。キャピトルもステレオ盤とモノラル盤をリリースしているが、手持ちの音源にステレオ・バージョンが無ければモノ・ミックスを疑似ステレオ化して先ずステレオ・アルバムを制作する。その後、『EARLY BEATLES』と『HELP!』のモノラル盤に至ってはステレオ盤を使ってモノラル化する、いわゆる「偽モノ」を作っている。
‘Ticket To Ride’が典型的な例で、最初に受け取ったモノ・ミックスを疑似ステレオ化(左右のディレイで結構ヘビーな音)したものが、モノラル盤でモノ化されるという本末転倒なカオス状態となっている。



『HELP!』期からはアビイロードでも4トラック録音でのリダクション(別テープへのミキシングを伴うコピー)が始まっており、以降は現代人でも理解しやすい作業となる。ただし、ハードディスク・レコーディングとなった現代ではリダクションという作業は不要であり、バウンス(同じテイク内でのピンポン録音)のみであるので文献を読む際には注意が必要となる。特にルイソンさんは違いを理解しないまま『レコーディング・セッションズ』を書き終えたようである。
最初に記録されているのは「バウンス」で、65/2/19の‘That Means A Lot’の作業手順をマーティンがメモに記している。これはアレンジの方向性が定まらないまま録音を開始したため、トラック数不足が生じて実験的に試したものと思われる。ブートレグでの音質の悪さの一因はこれかも知れない。
以降も‘Being For The Benefit Of Mr. Kite!’のSE等で使われているようであるが(ジェフ・エメリックの著書より)、前述の通りルイソンさんが触れていないので真相は不明である。
Being For The Benefit Of Mr. Kite!
確実なのは直近の『LET IT BE』デラックス盤で‘Let It Be’の録音過程(8トラック録音)に於けるバウンスが明らかにされたことである。この記述の有無で最新研究か否かの判断材料となるだろう。そしてバウンスもまた研究の余地として残っている事を意味している。

音を重ねていく作業の中心は「リダクション」となる。この作業は‘Help!’のレコーディング時、ジョージが下降フレーズをベーシック・トラックとして弾きこなせなかった事に起因している。65/4/13、限られたレコーディング時間のためにはそこだけ後回しにせざるを得なくなり、音質劣化を覚悟しての苦肉の策であった。
ちなみにこの時のリダクションでボーカルはタンバリン付きでひとまとめにされ、その後にリードギターが追加されている。そのため、映画のマイム対策でタンバリンを抜くことができなかった。最初に述べた同期不可はこの頃には解消していた。演奏は同じだったので「ボーカル全体を差し替えた」と理解すれば良いだけだった。
Help!
その後、CTSでボーカル録音したという情報があって全てのミックス違いは解消した。ただし、このモノ・バージョン専用のボーカルが残っているか否かは現在でも不明である。少なくとも近年のリミックスではいずれもステレオ・バージョンのボーカルが使われている。

なお、4トラックテープに残されてない最後の音は‘Magical Mystery Tour’でのポールのセリフだろう。
Magical Mystery Tour


ミックス違いを探すのは聴いての通り簡単な作業であるが、ミキシング違いに気付けるのも演奏家には興味深いだろう。
比較音源で「音が移動する」のは何を意味するのか、最初は理解に苦しむが個別に聴いてみればフェードインの有無であることに気付く。‘Paperback Writer’のエンディングでベースがフェードインする雰囲気などはコピーバンドでも是非再現したいポイントである。
Paperback Writer
これと同様に‘Back In The U.S.S.R.’のイントロでのポールの"Oh"もフェードイン違い案件になっている。

アビイロード・スタジオの唯一無二の機材であるADTの効果は『REVOLVER』が分かり易い。ボーカルの原音と出力音が左右に分かれており、遅れて出てくる音がADT出力である。これを「より同時に聴こえるように」したのが‘Birthday’や‘Ob-La-Di, Ob-La-Da’である。ADTはアナログ機器であるため、全く同じものを再現することはできず、特に手動操作も加えた‘Wild Honet Pie’や‘While My Guitar Gently Weeps’では当時から効果の違いが顕著になっている。
While My Guitar Gently Weeps

忘れられているサンプラー風SE!
近年のリミックスですら気付いてなかった驚きの音が‘Good Morning Good Morning’に含まれている。この曲は「エンディングの雌鶏と次曲のギターをピッチ調整して繋いだ」という逸話が有名である。それ故に肝心のポイントが見過ごされている。
イントロ前の雄鶏の鳴き声はモノとステレオで違っており、モノはピッチ調整によって「レソソ ミ ファ#」とKey Aの音階に補正されている(手動でサンプラーを実現したような音創り)。動物の声をレコードに取り入れたのはビーチ・ボーイズの『PET SOUNDS』の方が先であるが、ビートルズはそれを音楽の一部として使っていたのである。
この音はモノとステレオの比較で見つかったが、実は曲中で使われていたものである。つまり当初から計画していたトリックで、エンディング(動物の鳴き声の羅列)の開始を告げる雄鶏だけは曲に溶け込むようにしていたのである。
Good Morning Good Morning

これはつい最近の発見で、まだまだ未発見の秘密が隠れていることだろう。

【完】



副産物にも脱線しておく。
レコード至上主義の人には耳の痛い話かも知れないが、ワウ・フラッター(回転ムラ)という品質問題は避けられない。本来はレコード・プレーヤー(機器)の性能の指標であるが、レコード盤自体も影響する場合がある。
CDの優位性のひとつにこのワウ・フラッターが無いという点がある。スタジオで制作した音はノイズも回転ムラもない状態で家庭のCDプレーヤーまで届けられる。ただし音質はサンプリング定理という理論に依存しているので評価の分かれるところであるが、昨今はスタジオもデジタル処理をしているのでほぼ同じと言っても良いのだろう。

同期させた音で船酔いしそうになる曲があってこの問題を発見した。
日本製である東芝EMIの盤は支障がなかったが、アメリカ製のモービルフィデリティ盤、特に『SGT> PEPPER』は酷かった。音が良いと評判なので優先的に採用したが、製造段階に難があったようだ。中心穴のズレが大きい盤を使って同期させると、音揺れを体感できる状態になって詳細な分析ができなかった。
このため細部の調査は2009年のリマスター盤CDでモノとステレオが揃うまで待つしかなかった。

高価なモービルフィデリティ盤だけに、今後入手を検討している方は中心穴をチェックポイントとするべきである。